いじめられたカラスは・・・
2025年6月20日 08時10分仲間にいじめられて飛べなくなり、森の中の地面にいたカラスのことが気になっていました。登校してくると、「カラスどうなった?」と6年生にきかれました。
「それじゃあ、見に行こう。」と6年生2人といっしょに森におりていくと、昨日のカラスはすでに死んでいて、ネコやタヌキに食べられていました。
仲間にいじめられて飛べなくなり、森の中の地面にいたカラスのことが気になっていました。登校してくると、「カラスどうなった?」と6年生にきかれました。
「それじゃあ、見に行こう。」と6年生2人といっしょに森におりていくと、昨日のカラスはすでに死んでいて、ネコやタヌキに食べられていました。
4年生が、国語の学習で今西祐行(いまにしすけゆき)さんの「1つの花」をやっていた。光村図書で昔からある戦争を扱った物語文である。
戦争のブロンズ像を探るために、「ことう教室」で資料を探しているうちに「いしずえ」という本を見つけた。笠原地区奉賛会が昭和59年に発行した非売品の本である。当時、笠原地区奉賛会長だった鈴木 博さんから本校に寄贈されていた。
読み返すと、「1つの花」のような家族の物語がいくつも見えてくる。以前、6年生の子たちと三和忠魂碑を訪れたことがあったが、石碑に刻まれた方々の顔写真、出生や略歴、戦死の状況や追憶が記録として残されている。皆、本校の卒業生である。読んでいて切なくなる。遺族等の許可を得たわけではないのだが、本校児童に伝えたくて何人か紹介する。
戸塚 昇さん 昭和19年8月11日戦死 24才
学業優秀でずっと級長をしていた。後輩によると、当時人気の陸上部の部長で、短距離選手として小笠郡大会で総合優勝をもたらし、全校生徒のあこがれの的だったそうだ。
奥さんにあてた最後の手紙に「われ一人の感情のみにとらわれず 国を賭しての戦なりせば」という辞世の歌を残した。残された奥さんは一人息子を抱きしめて生きてきたという。(遺族は現在、笠原には住んでいない。)
山田 一二 さん 昭和20年2月28日戦死 29才
ニューギニアで食料も乏しく、マラリヤ熱帯熱兼脚気で戦病死、月に400人が病死したそうだ。最後の言葉は、「後の事は全部任せる。両親と子供を頼むと之だけは故郷の家に伝えてほしい。」奥さんはその言葉を心の支えとして一人息子を育てた。
校舎北側の木で、朝から3羽のハシボソガラスが騒いでいます。カラスの言葉は分かりませんが、怒っているのは伝わってきます。縄張りを主張する鳴き声でも、警戒を発する鳴き声でもありません。「ぐわぁぁ、ぐわぁあ、があ」という声で連続して鳴いていました。
学校に隣接した森の地面に黒いかたまりが見えました。カラスが死んでいるのかと思い、近寄ってみると、まだ生きていました。頭を持ち上げ、羽を前に伸ばそうとしますが、歩けないし、飛べません。
ああ、これは「カラスのいじめ」だなと思いました。カラスは仲間を追い立て、攻撃し、けがをさせてしまうことがあるのです。人間だけでなく、動物の世界にも「いじめ」が存在します。
子どものいじめならば、即、介入するところですが、野鳥のため見過ごすことにしました。
地元の文芸誌「ふるさと袋井 第9集」に「三輪神社の由緒」という寄稿を見つけた。山崎の大津尚容さんによる文章である。6年生の歴史の学習にもつながると思い、紹介させていただく。
笠原にある三輪神社は、奈良県桜井市にある大神(おおみわ)神社とつながりがある。それがどうした、と思うかもしれないが、6年生が学んでいる日本の歴史の中の大和朝廷の勢力拡大と関係があるということらしい。
大和朝廷の征討軍は武力だけでなく、まじないの力で人々を服従させていく。大津さんによれば、征討軍が進んだ道筋に大神神社の末社が多く、笠原の三輪神社もそのうちの1つだそうだ。この神様をまつれば、災害や病気を防ぎ、米や野菜も豊かに実ると、言葉の力で信じさせ、勢力下に収めていった。
大和朝廷の勢力拡大とともに前方後円墳が広がり、三輪神社も増えていったということか。ただ、当時は社殿はなく、海辺に面した山を神聖な場所として、祭りを行ってきたのだという。古代の遠江(静岡県西部)に35ほどあった三輪神社のうち、今も残っているのは3社だけだそうだ。笠原の人たちは、三輪神社を大切に残してきたということか。
三輪神社の祭神は、大物主命(おおものぬしのみこと)でヘビの神様である。古事記の中には、神話が残されている。
奈良の大神神社のホームページはこちらから。
グーグルマップでの笠原の三輪神社のリンクはこちらから。
笠原っ子で三輪神社のリポートをしてくれる子はいないかな。
笠原地区の歴史愛好家のみなさんが調べてくれて、寄贈者の息子さんが分かりましたが、すでに笠原地区には住んでいないそうです。
ブロンズ像のなぞは残ったままなので、自分なりに調べてみました。昭和7年寄贈という点と、陸軍の軍装から考えて、日露戦争後に従軍し、遠征されたのではないかと予想しました。当時の軍服を調べていくと、かなり近いものが見つかりました。
絵の中央付近の歩兵の帽子、服、軍装がブロンズ像に似ています。
出典はこちらです。
絵図の右側には「救露対獨遠征軍」とあります。いわゆる「シベリア出兵」と言われ、第一次世界大戦後に日本を含む連合国が共同で派兵しました。絵図は、1918年(大正7年)8月11日のウラジオストック上陸の様子です。ロシア革命により拡大する共産主義の封じ込めという意味もあり、1922年までに日本だけで7万人以上が出兵しました。
寄贈者本人(またはその父)は、このときロシアで戦功をあげたのか、戦死されたのかと思われます。ただ、本校の沿革誌に寄贈の記録は残っていないので、事実の確かめようがありません。
昭和7年4月の本校の沿革誌には、遺骨が届き全校児童で出迎え、村葬を行ったと記録されていますが、別の方のようです。
村田武一 氏は、おそらく昭和7年に上海の共同租界周辺で日中両軍が衝突した「第1次上海事変」の戦死者だろうと推測します。
※のちに「いしずえ」(笠原奉賛会)の資料で、村田武一氏の略歴を発見しました。昭和7年3月24日に吉林省板子房南方地区にて戦死、行年23才。上海ではなく満州でした。笠原地区での満州事変最初の戦死者であり、村葬の第1号だったそうです。笠原小全校児童約700人が長い行列を作って、柏木地区まで見送ったそうです。
出勤途中に中学校1年生とすれ違うことがある。男女ともマスクをつけている子が何人かいる。そういえば、昨年度6年生のときもマスクの着用率が高かった。
校内の授業巡視をしていると、5,6年生でマスクをつけている子が何人かいる。4年生以下では、マスクの着用率はぐっと減る。
2020年から2023年までのコロナ禍で、行動や生活に制限が加えられた影響をもろに受けたのは、今の11歳、12歳、13歳くらいの年代に集中しているのかもしれない。
小学校低学年のときに、学校や社会で刷り込まれた知識や習慣などは、その後も影響が残りやすいのではないかと個人的には思っている。
今日もこんなに暑いのに、マスクを外さない一部の子たちがいる。暑いときには、外すように声を掛けようか、と迷っている。
午前10時前に、熱中症指数(WBGT値)が30をこえたので、2時間目のあとの20分休みの屋外での運動をとめました。3時間目の5年生の体育は、様子を見ながら実施しています。プールサイドの温度計は、29℃をこえてきました。見学者は保健室で過ごします。井戸水のため、水温は冷たく感じます。水の中に入ってしまえば、大丈夫そうです。
校地内をぐるっと見回ってくるだけで、汗がふきだしてきました。
ビオトープの流れは、井戸水のかけ流しなので、メダカは快適。湿度が高く、ムシムシしている。日なたにいると、かなり暑い。
森の中は涼しい。先週に草刈りをやっておいてよかった。
斜面にカニの巣穴発見。いっせいにガサガサと音がしました。
「小さな森の小川」は、水が多かったので、ちょろちょろ出しておいた井戸水の栓をしめておきました。
体育館の気温は27℃。ぎりぎり運動ができそうです。
土曜日に大量の雨が降り、日曜日は晴天。月曜の朝の通学路の様子を見ると、茶畑の脇の側溝から水があふれだし、道路の低いところにたまって流れていました。茶の木が道路にはみ出しているので、子どもたちが水たまりを避けて歩いていました。
持ち主を確認して、茶の木を少し切ってもらおうと思います。