笠原の「1つの花」
2025年6月19日 12時22分4年生が、国語の学習で今西祐行(いまにしすけゆき)さんの「1つの花」をやっていた。光村図書で昔からある戦争を扱った物語文である。
戦争のブロンズ像を探るために、「ことう教室」で資料を探しているうちに「いしずえ」という本を見つけた。笠原地区奉賛会が昭和59年に発行した非売品の本である。当時、笠原地区奉賛会長だった鈴木 博さんから本校に寄贈されていた。
読み返すと、「1つの花」のような家族の物語がいくつも見えてくる。以前、6年生の子たちと三和忠魂碑を訪れたことがあったが、石碑に刻まれた方々の顔写真、出生や略歴、戦死の状況や追憶が記録として残されている。皆、本校の卒業生である。読んでいて切なくなる。遺族等の許可を得たわけではないのだが、本校児童に伝えたくて何人か紹介する。
戸塚 昇さん 昭和19年8月11日戦死 24才
学業優秀でずっと級長をしていた。後輩によると、当時人気の陸上部の部長で、短距離選手として小笠郡大会で総合優勝をもたらし、全校生徒のあこがれの的だったそうだ。
奥さんにあてた最後の手紙に「われ一人の感情のみにとらわれず 国を賭しての戦なりせば」という辞世の歌を残した。残された奥さんは一人息子を抱きしめて生きてきたという。(遺族は現在、笠原には住んでいない。)
山田 一二 さん 昭和20年2月28日戦死 29才
ニューギニアで食料も乏しく、マラリヤ熱帯熱兼脚気で戦病死、月に400人が病死したそうだ。最後の言葉は、「後の事は全部任せる。両親と子供を頼むと之だけは故郷の家に伝えてほしい。」奥さんはその言葉を心の支えとして一人息子を育てた。