軍服のブロンズ像 寄贈者の子孫
2025年6月16日 12時32分笠原地区の歴史愛好家のみなさんが調べてくれて、寄贈者の息子さんが分かりましたが、すでに笠原地区には住んでいないそうです。
ブロンズ像のなぞは残ったままなので、自分なりに調べてみました。昭和7年寄贈という点と、陸軍の軍装から考えて、日露戦争後に従軍し、遠征されたのではないかと予想しました。当時の軍服を調べていくと、かなり近いものが見つかりました。
絵の中央付近の歩兵の帽子、服、軍装がブロンズ像に似ています。
出典はこちらです。
絵図の右側には「救露対獨遠征軍」とあります。いわゆる「シベリア出兵」と言われ、第一次世界大戦後に日本を含む連合国が共同で派兵しました。絵図は、1918年(大正7年)8月11日のウラジオストック上陸の様子です。ロシア革命により拡大する共産主義の封じ込めという意味もあり、1922年までに日本だけで7万人以上が出兵しました。
寄贈者本人(またはその父)は、このときロシアで戦功をあげたのか、戦死されたのかと思われます。ただ、本校の沿革誌に寄贈の記録は残っていないので、事実の確かめようがありません。
昭和7年4月の本校の沿革誌には、遺骨が届き全校児童で出迎え、村葬を行ったと記録されていますが、別の方のようです。
村田武一 氏は、おそらく昭和7年に上海の共同租界周辺で日中両軍が衝突した「第1次上海事変」の戦死者だろうと推測します。
※のちに「いしずえ」(笠原奉賛会)の資料で、村田武一氏の略歴を発見しました。昭和7年3月24日に吉林省板子房南方地区にて戦死、行年23才。上海ではなく満州でした。笠原地区での満州事変最初の戦死者であり、村葬の第1号だったそうです。笠原小全校児童約700人が長い行列を作って、柏木地区まで見送ったそうです。