校長のあたまのなか

「校訓」とは何なのか?

2025年12月17日 08時59分
笠原の歴史

 笠原小に赴任して気になったのは、いたるところに校訓があることだった。玄関前、校長室、児童昇降口、体育館、西門のわきに掲げられている。

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玄関前

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校長室

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児童昇降口

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体育館

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西門のわき

 これらの中で、一番古いのは西門のわきにあるレリーフである。一見すると目立たない場所にあり、昭和48年にPTA評議会が建てている。

 学校の歴史を調べていて驚いたのは、このとき(昭和48年)は、校訓ではなかったという驚きの事実である。もともとの校訓は以下のとおり。

ひとつ、正直にせよ

ひとつ、元気なれ

ひとつ、礼儀(れいぎ)を守れ

ひとつ、親切にせよ

ひとつ、よく勤めよ

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 子どもたちには、正直、元気、礼儀、親切、勤勉の5か条として親しまれていたそうだ。

 昭和48年に何があったのか、探ってみた。名簿によれば、当時の校長は安達 清先生だった。

 昭和45年に赴任した安達校長は、笠原小に3年間勤務し、その間に学校教育目標として「強い子 明るい子 考える子」を示して学校経営に当たった。昭和48年に次の棚橋清香校長には、学校教育目標を校訓に替えるように引き継いだそうだ。開校100周年事業に向け、書家の山崎大抱先生に揮毫していただき額装された書が、今、校長室に残っている。

 翌、昭和49年、笠原小学校開校百周年事業「鼓濤祭」で、校訓の変更が広められたのである。棚橋清香校長は、百年記念誌編集に当たり、委員に校訓の変更を事前に知らせたらしいのだが、委員の中に「はておかしいなと思ったがその時は従うしかなかった」と違和感を感じた方がいた。

 その方が、後日「開校以来百年も続いてきた伝統ある学校の校訓を偶々(たまたま)渡ってきた一校長の独断で、いとも簡単に差し替えられて良いものだろうか。当時市の教育委員会とか、地区内の有識者の中に、意見を差し挟む人は居なかったのだろうか。(中略) 私はこの際是非一度、権威ある然るべき機関に於いて、この問題に就き慎重なる検討審議の上善処すべきであると強く提言するものである。」と公的な冊子に寄稿している。今なら炎上騒ぎだったろう。

 地域の方々の思いと熱量が高い笠原地区だからこそ、校訓や学校の方針を変えるときには、慎重であるべきなのだ。

 今の笠原小ならば、コミュニティスクールが機能して、学校運営協議会委員から、意見をいただいて、学校の方針を承諾していただくことになる。校長の独断で校訓を変えることはないし、事前に設置者(袋井市教育委員会)にも相談すると思う。