社会科 平城京と仏教
2025年6月26日 12時07分奈良の都の様子と地方の様子を比べていました。
奈良時代の笠原地区の様子で分かっているのは、焼き物の窯の跡です。「衛門坂古窯跡」で須恵器という土器を焼いていました。また、瓦も作られていて、遠江国分寺の瓦は笠原で作られて運ばれていました。国分寺は、聖武天皇の命令で仏教をさかんにするために全国に作られたもので、磐田市に跡地が残されています。
奈良の都の様子と地方の様子を比べていました。
奈良時代の笠原地区の様子で分かっているのは、焼き物の窯の跡です。「衛門坂古窯跡」で須恵器という土器を焼いていました。また、瓦も作られていて、遠江国分寺の瓦は笠原で作られて運ばれていました。国分寺は、聖武天皇の命令で仏教をさかんにするために全国に作られたもので、磐田市に跡地が残されています。
10年以上前に磐田市役所勤務だったとき、昼休みに遠江国分寺跡を散歩しました。地面には、明るい茶色の瓦の破片が落ちていて、ときどき拾っていたのを思い出します。あの瓦は、笠原で焼いたものだったんだ。うわぐすりはなく素焼きの土片でした。
当時は、横須賀、笠原、浅羽から磐田の今之浦の辺りも内海だったので、笠原の瓦は船で中泉まで運ばれたのでしょう。