ランドセルの色に思う
2024年11月6日 13時09分学区にある岡崎会館から、会館だよりへの寄稿(約800字)を依頼され、書いたのが以下の文章です。原文は縦書きなので漢数字を使っています。
私が小学生の頃、ランドセルの色は二色で、男子は黒で女子は赤だった。今は、ランドセルの色は四十色近くの中から選べる。本校児童のランドセルを見ても、二十色は優に超えている。自分の好きな色を選べることは、子どもにとっても親にとっても幸せなことなのだろう。ただ、ランドセルの多色化が当たり前になってくると、選べるありがたみは薄れてしまうに違いない。
いっぽうで、高校生になると事情が異なるようだ。私は昨年度までの三年間、市役所に勤務しており、高校生に交じって自転車通勤をしていた。高校生の鞄を見ると、男女ともアウトドア・メーカーの黒のリュックサックが流行りのようだった。
小学校時代に好きな色を選んでいた子たちが、高校でほとんど黒一色になるのは興味深い。九年間にどんな意識の変化が起きているのかを考察してみたい。あくまで私の主観ではあるが。
個性的であり続けること、常に自分らしさを選択し続けることは、子どもたちにとって実は大変なことなのではないか。今どきの子どもたちや若者にとって「個性的」とは誉め言葉ではないという報告もある。
小学校入学時には、自分らしい色のランドセルを選び、のびのびとしていた子どもたちが、学校という集団生活の中で変容し、横並びになっていく。集団の中で悪目立ちしたくないという思いが強まるのである。学校の管理主義のせいばかりではなく、生徒や学生が自ら好んで、多数派の中にいる安心感を得ようとするのだと思う。
文部科学省が、「主体的」と声高に叫ぶのは、社会人となった若者が主体的ではないからだ。受動的で指示待ちの人間ではよくないということで、幼児教育の段階から主体性を育てることに熱心なのだ。子どもたちが、社会自立するまでの間に、自分らしさを保ち、主体的に学び続けられるように支援し続けるのが、教師の役割だと思う。将来、高校生の鞄がどうなるのかが、ちょっと気になる。