校長のあたまのなか

「やまなし」の罪深さ

2025年10月7日 10時05分
授業

 私自身も6年生のときに、宮沢賢治の「やまなし」を学習した。正直よく分からなかった。今日、6年生の授業を参観すると、「クラムボンは、何だろうか。」と考えていた。正解はない。よく考えても答えは出ないからモヤモヤする。

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 自分が教員になって、6年生を担任することが何度かあった。「やまなし」で毎回苦労した。「やまなし」は、難解教材とされ、国語が得意な先輩教師からは、「『やまなし』が教えられるようになったら一人前。」みたいに言われた。30年ほど前は、物語文の学習に10時間以上かけ、ねっちりと内容の読み込みをしていた。研究授業で「やまなし」が当たると、必死で教材研究をしたものである。難しいものをありがたがるような、小学校教師の世界の雰囲気はまだ消えていないのだろうか。

 実際、教師の力量によって、「やまなし」の授業は、かなり差が出ると感じる。賢治作品でも「注文の多い料理店」のように、分かりやすいものに変えてあげればいいのにと思う。

 宮沢賢治は、「やまなし」の推敲で、当初は五月と十一月だったそうだ。クラムボンやイサドという名前に深い意味はないこと、謎解きの物語ではないことも分かってきた。「やまなし」を読み込むには、賢治作品の比べ読みが有効である。「よだかの星」「虔十公園林」などをいっしょに読むといいのだが、今の授業時数では、そこまで余裕がない。かえって教えにくいと感じる。

 今も昔も「やまなし」は、子どもにとって分かりにくく、教師にとっては教えにくい。罪深い教材だと思う。